GPT-6 Astraによる第一次世界大戦暗号の復号報告とその実態
米OpenAIは2026年9月3日に最新モデル「GPT-6 Astra」の安全性の概要を公表しました[1, 2]。このモデルを用い、歴史的な暗号を解読したとする報告があります。IT系メディアのTom’s Hardwareは、開発者Prinz氏の試行を報じました。同氏はGPT-6 Astraを用い、1918年のドイツ軍暗号を復号したとしています[3]。ただし、この成果はOpenAIによる公式発表ではありません[4]。また、暗号学の専門家による査読(専門家が研究内容を審査する手続き)を経た検証も示されていません[3]。
対象となった暗号文は、J. Rives Childs氏の資料集に収録された「ADFGVX暗号」による無線通信群に含まれるとされています[5]。ADFGVX暗号とは、文字を特定の文字ペアに変換するポリュビオス方陣と、文字の並び順を入れ替える列転置を組み合わせた手動暗号方式です[6]。今回の成果は、暗号文のみから未知の鍵を復元したわけではありません[7]。Childs氏の著書に記載された既知の鍵語「TRUPPENVERSCHIEBUNG」を、170文字の暗号文に適用したものです[8, 9]。
具体的な復号手順としては、19文字の鍵語をもとに暗号文を19列の転置として再構成しています[10, 11]。得られた記号ペアを方陣によってドイツ語の平文へ戻しました[10]。検証者は、独立した検証リポジトリの再現スクリプトを実行し、同じ平文が生成されることを確認しています[12]。しかし、これは公刊された鍵を当てはめた再現であり、鍵探索の一意性(一つの鍵だけに定まること)を証明したものではありません[13]。当時、連合国側はADFGVX暗号による通信の95%を解読しており、今回の成果は新たな暗号解読理論の発見を意味するものではありません[14]。
「108年間未解読」の主張と史料照合に残る複数の矛盾
報道では「108年間未解読だった通信の解読」と強調されています[15]。しかし、この新規性は解読者による「私の知る限り未解読」という自己申告に基づいています[16]。所蔵機関による解読済み認定や、網羅的な先行研究調査は確認されていません[17]。また、通信の送信者や受信者の個人名は特定されておらず、送信先も司令部宛てと推定されるにとどまります[18]。Childs氏の関連資料を保管するバージニア大学特別コレクションに、対象の原紙が現存するかどうかも公表情報からは確認できません[19]。
さらに、史料の間には日付を巡る重大な矛盾が存在します。鍵語「TRUPPENVERSCHIEBUNG」は、記録上1918年12月9日から使用されたとされています[20]。これに対し、対象通信の送信日は11月27日と報告されています[21]。送信日については11月29日とする報道もあり、情報源の間で一致していません[21]。鍵の使用開始日と送信日の間には約12日間のずれがあります[22]。この時期の不一致が、従来の探索でこの鍵が除外されていた理由と考えられます[23]。
平文には英巡洋艦が『?4日』に到着し、連合艦隊が26日に続くと読めます。艦船記録は24日を示しています[24]。英軽巡洋艦HMS Canterburyの航海記録では、11月24日にセヴァストポリ港に入り、26日に連合艦隊が到着したと記されています[25, 26]。この一致は内容の確からしさを高めますが、鍵の正当性や歴史的一意性を確定する根拠にはなりません[27]。平文には「S4STEN」など曖昧な文字が残っており、到着日を24日と特定した判断には艦船記録を参照した後知恵的な補正が含まれる可能性があります[28]。
| 項目 | 記録された日付 | 該当する史料・報告 | 整合性の状況 |
|---|---|---|---|
| 暗号通信の送信日 | 1918年11月27日(報道では29日説あり) | 発表者報告、検証リポジトリ、Tom’s Hardware | 媒体間で日付の記載に不一致が存在 [21] |
| 鍵語の使用開始日 | 1918年12月9日 | Childs氏の暗号資料記録 | 送信日と比べて12日間の時期矛盾が存在 [20, 22] |
| HMS Canterbury到着 | 1918年11月24日 | 英海軍航海記録(一次史料) | 復号文の記述とおおむね整合 [25] |
| 連合艦隊の到着 | 1918年11月26日(11時30分) | 英海軍航海記録(一次史料) | 復号文の記述と正確に整合 [26] |
高度な推論と異種史料照合を連結したAIワークフローの登場
今回の報告で注目すべき点は、暗号理論を突破したことではありません。文献調査から史料照合までを、AIで統合したことです[29]。従来研究では、文字の出現頻度から暗号の特徴を調べる頻度分析、鍵を推定する鍵回復、候補を少しずつ改善するヒルクライミングなどが用いられてきました。今回の試行では、公刊された鍵候補の探索、転置行列の再構成、文字起こしの誤り補正、外部の海軍航海記録との照合が、一連の流れとして結び付けられました[30, 31]。
GPT-6 Astraには高い処理能力が公表されていますが、今回の成果への具体的な寄与は確認できません。GPT-6 Astraは、OpenAI APIで最大105万トークン(AIが処理する文章の単位)を扱えるコンテキストウィンドウに対応しています。出力は最大12万8000トークンです[32]。コンテキストウィンドウとは、AIが一度に把握できる情報の量を指します。このモデルはAPIやクラウド基盤を通じて提供されています[33]。また、コード実行やウェブ検索機能も備えています[34]。性能評価テストのFrontierMath Tier 4では98%、ARC-AGI-3では99.9%のスコアが公表されています[35]。ただし、今回の暗号解読で具体的にどのプロンプトや推論設定、計算資源が使われたのかは公表されていません[36]。ベンチマーク値も今回の暗号解読性能を直接示すものではない点に留意が必要です[37]。
歴史文書解読の革新と現代暗号安全性への冷静な境界線
歴史研究の現場において、AIを用いた文書解析は大きな実用性を持っています[38]。過去の暗号史料には、通信時の欠損や転記ミスが含まれる場合があります。AIは文脈を考慮しながらそれらを柔軟に補正し、関連する軍事記録と照合する作業を支援できます[39]。手作業に依存していた歴史文書の復元作業を大幅に効率化できる利点があります。
一方で、今回の成果をもって現代暗号の安全性が脅かされると考えるのは誤りです[40]。ADFGVX暗号は紙と鉛筆に依存した手動暗号であり、当時から連合国軍はその通信の95%を解読していました[41]。多くの現代暗号では、解読に必要な計算量が現実的には膨大になるという仮定の下で、安全性が評価されます。既知の鍵候補や歴史的文脈が存在する古典暗号の復号と、現代暗号の解読を同列に扱うことはできません[40]。
後輩100年以上前の軍事暗号をAIが解読したと聞くと、現代の暗号技術も危ないのではと心配になりますね。
先輩そこは冷静に切り分ける必要があるよ。今回は当時の手動暗号に対して、残されていた鍵の候補を当てはめた作業だからね。
後輩つまり、未知の鍵を数学的に破ったわけではないということですね。
先輩その通りだよ。計算量的な安全性を重視する現代の暗号システムとは、前提が全く異なっているんだ。
後輩なるほど。AIが暗号理論そのものを覆したわけではないんですね。
先輩そうだね。古典的な暗号と現代の暗号では、安全性の仕組みが根本的に違う点を見落とさないことが大切だよ。
史料研究者とセキュリティ実務者が直面する検証の課題
AIを歴史研究や情報分析の実務に導入する際には、特有の課題への対処が求められます。OpenAI自身が指摘するように、GPT-6 Astraでも誤った情報を生成するハルシネーションは完全には解消されていません[42]。ハルシネーションとは、AIが事実に基づかない情報を出力する現象を指します。さらに、高度な推論モデルでは思考プロセスの監視が難しくなる現象も報告されています[43]。AIの出力結果だけを根拠にして、歴史的文書の真偽を確定することはできません[44]。
また、OpenAIはGPT-6 Astraを危険度の高いサイバー能力を備えたモデルと位置づけています[45]。歴史史料の復元においてAIの柔軟な推論は有用ですが、研究者による一次史料(当時作成された原資料)の確認と、監査(手順と結果を点検する作業)が不可欠です。AIを過信せず、外部の客観的証拠と突き合わせる検証体制の構築が、研究者と実務者の双方に求められています。



