LG Displayは次世代OLED製造技術「FLiPP」を公開し、従来の金属マスクを使わない画素形成プロセスを提示しました[1]。8.5世代マザーガラスを活用した高い生産効率と大幅な性能向上を両立する技術として注目を集めています[4]。本稿では、FLiPPの仕組みや発表の背景、業界への影響、そして実用化に向けた課題を解説します。
何が起きたのか:金属マスクを排した新技術「FLiPP」の発表
LG Displayは2026年8月19日、韓国の釜山で開催されたディスプレイ国際学会「IMID 2026」にて、新技術「FLiPP」を世界で初めて公開すると発表しました[1]。FLiPPは1年間の集中研究開発を経て確立された技術です[18]。
名称のFLiPPは「FMM-Less innovative Pixel Patterning」の略称です[2, 6]。従来の有機EL(OLED)製造で広く用いられてきたFMM(Fine Metal Mask:微細金属マスク)を使わずに、画素を形成する点に特徴があります[2]。
同社は、8.5世代マザーガラス(大型のガラス基板)を一枚のまま使ってFMM不要のOLEDを製造できる技術としてFLiPPを位置付けています[4, 55]。理論上は1インチから100インチまでのディスプレイに対応可能としており、まずはタブレットやモニターといったIT向け製品への適用から開始する方針です[53, 68]。
ただし、今回の発表は量産開始を意味するものではありません[5, 17]。8.5世代ガラスを用いた製造プロセスの技術実証という段階であり、公式発表において具体的な量産開始時期や製品の発売日、月産能力などは明らかにされていません[5, 29, 69]。
後輩FLiPPって、新しいOLEDパネルそのものが発売されたわけではないんですね?
先輩そうだね。今回はFMMを使わずに大型ガラス基板で画素を作る製造技術の実証を発表した段階だよ。
後輩量産の開始時期や実際の製品発売日は、まだ決まっていないということですか。
先輩その通り。まずは技術を公開して、IT製品向けに顧客評価などを進めていく段階だとみられるね。
何が変わるのか:FMM方式の課題打破とディスプレイ性能の向上
従来のFMM方式は、微細な穴を開けた金属板を通して赤・緑・青(RGB)の有機材料を蒸着する仕組みでした[2, 7]。これは絵の具のステンシルのような工程です[2]。
しかしFMM方式には構造的な課題がありました。基板が大型化すると金属マスク自体の重みで「たわみ」が発生し、位置ずれや混色欠陥が起きやすくなります[9, 34]。また、パネルのサイズや解像度を変更するたびに高価な新しいマスクを製造する必要がありました[9]。そのため、大型の母ガラスを半分に切断(ハーフカット)して処理せざるを得ない制約もありました[10]。
FLiPPではこの工程を根本から変更します。RGB材料を順番に基板上へ塗布して固定し、フォトリソグラフィー(感光剤と光で微細パターンを転写する半導体技術)と精密な紫外線(UV)光エッチングによって不要な部分を除去します[2, 7, 56]。
この方式により、8.5世代母ガラスを分割せずに一枚のまま処理できるようになります[4, 10]。LG Displayによると、同じサイズのノートPC用OLEDパネルを製造する場合、FMM方式や分割基板を要する方式と比較して、母ガラスの利用効率が最大64%向上します[4, 11, 33]。
さらに、発光領域の割合を示す開口率がFMM方式と比べて約55%向上します[3, 12, 32]。同一条件での比較において、以下の性能向上が可能になると説明されています[3, 12]。
マスクの大型化によるたわみや制約を回避できるため、顧客が求める多様な画面サイズや解像度へ柔軟に対応しやすくなる利点も期待されます[34]。なお、公開資料からはRGB有機材料をパターニングする工程への変更は確認できますが、具体的な発光分子の組成や補助材料の詳細は特定されていません[8]。
後輩金属マスクを使わずにフォトリソグラフィーを使うと、なぜ性能が上がるんですか?
先輩マスクの穴を通す制約がなくなって、画素の中で実際に光る面積である開口率を広く取れるからだよ。
後輩なるほど。光る面積が広がる分、同じ明るさなら負荷を下げられて長寿命や省電力につながるわけですね。
先輩その通りだね。大型ガラスを割らずに使えるから、生産効率の面でも大きなメリットがあるんだ。
なぜ今なのか:激化するIT向け高世代OLED投資とLGの狙い
今回の発表の背景には、IT向けOLED市場の拡大予測と、それに伴う競合各社の激しい設備投資競争があります。
調査会社のデータによると、IT向けOLEDの売上高は2024年の25億3400万ドルから2029年には89億1300万ドルへと急成長し、年平均成長率(CAGR)は28.6%に達すると見込まれています[23]。LG Display自身の2025年売上高においても、モニターやノートPC、タブレットなどのIT製品向けが36.8%を占めています[21]。
ただし、2025年のIT向け売上は前年並みにとどまり需要は低調だったため、同社は高付加価値品やTandem OLEDの比率を高めて収益性を改善する方針を示していました[21]。また2026年7月には、モニター市場がLCDからOLEDへ移行していることを受け、ゲーミングOLEDなどの高付加価値製品の出荷拡大を掲げています[22]。
競合他社も高世代ラインへの投資を加速させています。Samsung Displayは8.6世代IT OLEDラインに2026年まで4.1兆ウォンを投資し、年間1000万枚のノートPC向けパネルを生産する計画を進めています[23]。同社は2026年に8.6世代A6ラインを本格稼働させる方針です[24]。また中国のBOEも、2026年6月に成都で中国初となる第8.6世代AMOLEDラインの量産を開始し、14インチの2.8KノートPC向けパネルなどの納入を始めています[25]。
LG Displayは2025年6月、坡州(パジュ)事業所を中心とする次世代OLED技術向けに、1兆2600億ウォンの設備投資(期間:2025年6月17日〜2027年6月30日)を承認しました[19, 49]。この投資額の内訳としてFLiPPや8.5世代ラインへの配分は明示されていませんが、時期や拠点が重なっています[20, 49]。
LG Displayは、すでに保有している大型Tandem WOLEDの生産インフラと技術ノウハウを活用してFLiPPを開発したと説明しています[16, 27, 57]。新世代の巨大投資を進める競合に対し、既存設備の強みを活かして8.5世代での高い生産効率とコスト競争力を顧客へアピールする狙いがあるとみられます[28, 35]。
技術の位置付けと先行技術との違い
FLiPPを正しく理解するには、既存のディスプレイ技術や他社のFMMレス技術との違いを整理する必要があります。
まず、WOLED(White OLED)との違いです。WOLEDは白色発光層にカラーフィルターを重ねて色を表現する構造です[14]。これに対し、FLiPPはRGBの発光材料を直接サブピクセルとしてパターニングする方式であり、発光および色形成のアーキテクチャが異なります[13, 14]。
また、Tandem OLED(タンデムOLED)との関係も整理が必要です。Tandem OLEDは発光層を2層に積層して耐久性や輝度を高める「発光構造」を指します[15]。FLiPPは画素をどう形成するかという「製造プロセス」の技術であり、両者は異なる技術軸に位置します[15, 31, 57]。FLiPP自体がTandem OLEDそのものを意味するわけではありません[16, 57]。
FMMを使わずにフォトリソグラフィーで画素を形成する試みは、FLiPPが業界初ではありません[55, 67]。主な先行技術および他社動向は以下の通りです。
- JDI「eLEAP」:2022年に発表された、マスクレス蒸着とフォトリソグラフィーを組み合わせた技術です[26, 58]。JDIは500件以上の関連特許を出願しています[61]。G6茂原工場で試作を行い、歩留まり60%超を達成して14インチ(1600nit)や32インチ車載パネルを開発しました[48, 70, 71, 72]。ただし、JDIは2025年に社内生産を停止し、ファブレスモデルへの移行を決定しています[54, 72, 73]。
- Visionox「ViP」:中国VisionoxのFMMフリー技術です。2024年12月に量産製品を公開し、G6ラインからHonor向けウェアラブル製品へ供給した実績があります[65, 66, 73]。さらに合肥で総投資額550億元、月産能力3万2000枚の第8.6世代ラインを立ち上げ、装置搬入を進めています[50, 65, 66, 73]。
- Applied Materials「MAX OLED」:画素ごとに成膜と封止を行うマスクレス製造技術を提案しています[67]。
フォトリソグラフィーを用いた有機ELパターニングの基本概念は、LG自身の過去の特許(2012年優先日)やOrthogonal社の特許(2014年優先日)などでも古くから検討されてきました[62, 63]。FLiPPとeLEAPなどの先行技術には概念上の重複領域が存在します[59, 64]。
ただし、LGが採用するUVエッチングや保護構造などの詳細なプロセス条件が他社特許と同一かどうか、また特許の有効性やライセンス要否などは公開情報からは判断できません[59, 60, 64]。各社技術の現状を整理すると、FLiPPは「8.5世代の一枚ガラス基板を用いた製造実証」という点で独自性を打ち出しています[4, 55, 73]。
誰に影響するのか:サプライチェーンと最終機器への波及効果
FLiPPが実用化された場合、ディスプレイ産業のサプライチェーン全体に多角的な影響を及ぼす可能性があります。
IT機器メーカー(ノートPC・タブレット・モニターOEM)
高輝度、長寿命、低消費電力という特性は、屋外での視認性向上、HDR表示やゲーミング用途の強化、バッテリー駆動時間の延長といった製品差別化の選択肢を提供します[36]。同じ消費電力であればより明るく、同じ輝度であればより低消費電力で長寿命なパネルを設計できるようになります[36]。
テレビメーカー
大面積基板の利用効率が向上し、マスク起因のサイズ制約が緩和されれば、将来的に超大型や多様なサイズのRGB OLEDテレビを企画しやすくなる可能性があります[37]。ただしLG DisplayはIT用途を優先して展開する計画です[37, 53]。
ディスプレイ製造装置・材料サプライヤー
製造プロセスの変更に伴い、部材の需要構造が変わります[38]。
- FMMメーカー:FLiPPが普及した場合、大型FMMの新規購入や洗浄に関わる需要が減少するリスクがあります[39]。一方で、既存のFMM方式を採用するライン向けの需要は維持される見込みです[39]。
- 露光・塗布・エッチング装置および材料メーカー:フォトリソグラフィー工程、UV露光・エッチング装置、塗布装置、関連する化学材料などを手掛ける企業にとっては、新たな供給機会となる可能性があります[38, 40]。
エンドユーザー
製品化が進めば、より明るく見やすい画面やバッテリー持ちの改善、長期間劣化しにくいディスプレイといった利便性を享受できる可能性があります[42]。ただし、実際の店頭価格や発売時期はセットメーカーの設計や価格戦略に依存します[42]。
後輩ディスプレイを作る機械や材料のメーカーにとっても、かなり大きな転換点ですね。
先輩そうだね。金属マスクの需要が減る可能性がある一方で、半導体のような露光やエッチングの設備・材料に新しい商機が生まれる。
後輩パソコンやタブレットを使う私たちにとっても、バッテリーの持ちや寿命が伸びるのは嬉しい変化です。
先輩期待は大きいね。ただ、それがいつ手頃な価格で手に入るかは、これからの量産の成否にかかっているよ。
実用化へのハードル:量産経済性と信頼性の検証
FLiPPが示す性能向上や基板利用効率の数値は魅力的ですが、商業的な成功を収めるためにはクリアすべき技術的・経済的課題が存在します[41]。
第一の課題は、大面積基板における均一性と歩留まりの確保です。8.5世代という巨大なガラス基板全体で、エッチングの深さ、配線の線幅、側壁の角度などを均一に制御することは極めて困難です[47]。FMM特有のたわみ問題を排除できたとしても、大面積プロセスにおける欠陥の抑制は依然として歩留まりを左右する重要課題です[47]。
先行するJDIのeLEAPでは、試作開始から約6か月で60%超の歩留まりを達成したと公表されていますが、FLiPPにおける量産の立ち上げ難易度も同様に注視されます[48]。
第二の課題は、フォトリソグラフィー工程による有機発光材料の劣化防止です。一般にOLEDの有機発光層は水分や溶剤、UV光に対して脆弱です[44, 51]。フォトリソグラフィーやUVエッチングの工程中に有機層が膨潤・溶解したり、発光特性が低下したりするリスクがあります[44, 51]。
RGBを順番にパターニングする際、後から処理する色の工程が先に形成した画素を侵食しないよう、保護層の配置や耐性を持つ材料設計が不可欠とみられます[45]。今回の発表では2.4倍の寿命が示されていますが、工程中の潜在的なダメージや長期信頼性については継続的な検証が必要です[44, 52]。
第三の課題は、製造タクトタイムとトータルコストの成立です。FMMの交換コストを削減できる反面、RGB各色で成膜、塗布、露光、エッチングなどの工程を繰り返す必要があります[46]。フォトレジストや現像液などの材料費も発生するため、トータルの製造コストや設備投資額が自動的に下がるとは断定できません[43, 50, 51]。
LG Displayは坡州の既存Tandem WOLED設備やノウハウを活用するとしていますが、一部ラインの具体的な転換範囲やスケジュールは公表されていません[30, 41]。発表された優れた性能数値を、実際の量産ラインで高い歩留まりと経済性を維持しながら再現できるかが、今後の実用化に向けた最大の焦点となります[41, 43]。



