2006–2026年の歩み:教育用試作機から独自シリコン・AI拡張への変遷

Raspberry Piの歴史は、2006年にEben Upton氏が制作した25ドルの自作試作機から始まりました[1]。この原型機はAtmel ATmega644マイコン(クロック周波数22.1MHz)と512KBのSRAMで構成されていました[2]。当初は自作しやすさが重視されていましたが、汎用OSを動かす性能を確保する方針へと転換されました[2]。

2008年、若者のコンピューターサイエンス離れを食い止める教育目的の慈善団体としてRaspberry Pi Foundationが設立されました[3]。2011年5月にはBBC向けに試作機が公開され、ブログ記事への大きな反響が製品化を後押ししました[4]。

2012年2月29日、初代シングルボードコンピューター(SBC:1枚の基板に必要な回路を集約した超小型PC)「Raspberry Pi Model B」が35ドルで発売されました[5]。発売初日だけで10万件を超える注文が寄せられました[5]。ハードウェアにはBroadcom BCM2835プロセッサ、700MHzのARM11 CPU、256MBメモリー、Ethernet、2基のUSBポートが搭載されました[6]。

初代機は愛好家や教育関係者のコミュニティ主導で普及が進みました[7]。2012年7月には、ハードウェア浮動小数点演算に対応したDebian系OS「Raspbian」が推奨環境として整備されました[8]。2012年9月には英国ウェールズのSony Pencoed工場へ製造が移管され、月3万台の生産体制が構築されました[9]。2013年10月までに世界累計販売は175万台に達し、そのうち100万台が英国内で製造されました[10]。

周辺機器の拡張も進められました。2013年には5メガピクセルの公式カメラモジュールが25ドルで投入されました[11]。2014年7月の「Model B+」では35ドルを維持しつつ、汎用入出力端子(GPIO)を40ピンへ拡張し、4基のUSB 2.0ポートを標準化しました[12]。同時に策定されたHAT仕様により、拡張ボードの自動識別とLinuxドライバーの自動構成が実現しました[13]。

性能向上と低価格化の両立も図られました。2015年2月の「Raspberry Pi 2」は900MHzクアッドコアCPUと1GBメモリーを搭載し、初代比で約6倍の性能向上を果たしました[14]。同年11月には、5ドルの超小型機「Raspberry Pi Zero」を発売しました[15]。2016年2月の「Raspberry Pi 3」は64ビットCPUとWi-Fi・Bluetoothを一体化し、外付け通信機器なしでの運用を可能にしました[16]。

2019年6月の「Raspberry Pi 4」では、Broadcom BCM2711(1.5GHzクアッドコア)やUSB 3.0、ギガビットEthernet、4Kデュアルディスプレイ出力が採用されました[17]。発売時には1GB、2GB、4GBの構成が用意され、PCに近い処理能力を提供しました[17]。グラフィックスもVideoCore VIへ更新され、Debian BusterベースのOSが必要となりました[18]。

2023年9月に発表された「Raspberry Pi 5」は、2.4GHzクアッドコアCPU(BCM2712)と自社設計I/Oコントローラー「RP1」を搭載しました[19]。前世代比で2倍を超える処理性能を達成しています[19]。GPUはVideoCore VIIへ刷新され、OSはDebian BookwormをベースにWayland環境へ移行しました[20]。

後輩初代の25ドル構想からPi 5まで、性能も機能も大きく広がりましたね。

先輩ハードウェアの処理能力は飛躍的に伸びたけれど、40ピンGPIOや基板外形など、互換性の軸は維持され続けているよ。

後輩単に高速なCPUへ入れ替えるだけでなく、過去のエコシステムを壊さない工夫が続いてきたわけですね。

先輩その積み重ねがあるからこそ、個人の実験用にとどまらず長期運用の現場でも選ばれ続けているんだ。

なぜ今ローカルAIなのか:推論性能の指標とハードウェア要件の変化

Raspberry Piプラットフォームでは、クラウドを介さず端末側で処理を完結させるエッジ推論の需要が高まっています。2024年6月、Raspberry PiはPCIe接続の専用アクセラレーター「Raspberry Pi AI Kit」を70ドルで発売しました[21]。Hailo-8Lチップを搭載し、13 TOPS(Tera Operations Per Second:1秒間に1兆回の演算を行う単位)の推論性能を提供して画像認識などの負荷をCPUから切り離しました[21]。

さらに2024年10月には、基板形状をHAT規格に統合した「Raspberry Pi AI HAT+」が登場しました[22]。この製品群には、13 TOPS版(70ドル)と26 TOPS版(110ドル)の2モデルが用意されました[22]。カメラ画像を用いた物体検出や姿勢推定、プロセス制御やロボティクスなど、リアルタイム処理を要する用途が想定されています[22]。

2026年1月には、生成AI向けに設計された「Raspberry Pi AI HAT+ 2」が130ドルで発表されました[23]。本ボードはHailo-10Hチップを採用し、40 TOPSの推論性能と専用の8GBオンボードRAMを搭載しています[23]。これにより、大規模言語モデル(LLM)や視覚言語モデル(VLM)をローカル環境で動かすことが可能になりました[23]。

製品名公式価格推論性能専用RAM主な対応モデル・用途
Raspberry Pi AI Kit$70 [21]13 TOPS [21]なし [21]物体検出・姿勢推定など [21]
Raspberry Pi AI HAT+(13 TOPS)$70 [22]13 TOPS [22]なし [22]プロセス制御・画像認識など [22]
Raspberry Pi AI HAT+(26 TOPS)$110 [22]26 TOPS(INT8)[22, 24]なし [22]高負荷な画像認識・ロボティクス [22]
Raspberry Pi AI HAT+ 2$130(発売時)[23]40 TOPS(INT4)[23]8GB [23]LLM・VLM等のローカル生成AI [23, 25]

推論性能を比較する際は、数値の前提条件に注意が必要です。AI HAT+ 2の40 TOPSはINT4(4ビット整数)演算に基づく表記です[24]。一方、AI HAT+の26 TOPSはINT8(8ビット整数)演算の値です[24]。公式ドキュメントでは、コンピュータビジョン分野におけるAI HAT+ 2の実効性能は26 TOPSモデルと同等程度と説明されています[24]。TOPSの絶対値だけで実性能の優劣を判断することはできません[24]。

また、対応するモデルの種類も異なります。従来のAI HAT+はLLMやVLMに対応しておらず、生成AIアプリケーションの実行はHailo-10Hを搭載したAI HAT+ 2に限定されます[25]。

モデル規模の違いも認識しておく必要があります。クラウド上で稼働する主要なLLMは5,000億から2兆パラメーター規模に達します[26]。これに対し、AI HAT+ 2などのエッジ環境で動作するモデルは通常10億から70億パラメーター程度です[26]。したがって、専用アクセラレーターを導入しても、クラウド型の大規模モデルと同等の汎用的な推論能力が得られるわけではありません[26]。

加えて、実行環境を構築するには複数のソフトウェア層が必要です。64ビット版Raspberry Pi OS(Trixie)に加え、専用カーネルドライバー、ファームウェア、HailoRT、TAPPASフレームワークを整合させる必要があります[27]。各パッケージのバージョンが一致しないと正常に動作しないため、運用環境の管理が求められます[28]。

後輩40 TOPSという数字だけを見ると劇的な進化に見えますが、演算精度の前提が違うのですね。

先輩そうなんだ。INT4での40 TOPSとINT8での26 TOPSでは、画像認識の性能水準はほぼ同等と説明されているよ。

後輩扱うパラメーター数もクラウドとは一桁以上違いますし、万能な知能を期待するのは危険ですね。

先輩その通りだね。ネットワークを介さず、低遅延かつ閉じられた環境で何を実行したいのか、用途の限定が欠かせないよ。

何が変わるか:産業用途へのシフトと自社設計シリコンの導入

Raspberry Piの出荷構造は、教育用中心から産業・組み込み向けへと大きくシフトしました。2014年4月に登場した「Compute Module 1」は、BCM2835プロセッサと512MB RAM、4GB eMMCをSODIMM形状に収め、自社基板へ組み込む産業顧客向けに投入されました[29]。2020年12月時点で、産業市場は年間総売上の約44%を占める規模に達していました[30]。

2024年6月のロンドン証券取引所への上場(IPO)時点では、世界累計販売台数が6,000万台を超え、売上の3分の2超が産業・組み込み顧客によって占められていました[31]。さらに2024年11月の「Compute Module 5」(45ドル〜)発売時点では、全出荷ユニットの70〜80%が産業・組み込み用途へ向かう市場構造が示されています[32]。上場により調達された資金は、財団の教育慈善活動を支える基盤として活用されています[33]。

市場の拡大に伴い、半導体の内製化も進展しました。2021年1月、Raspberry Piは初のマイコン製品「Raspberry Pi Pico」を4ドルで発売しました[34]。この製品に搭載された「RP2040」は、同社が初めて独自設計したシリコンです[34]。133MHzデュアルコアCortex-M0+と264KBのオンチップSRAMを備え、Linux SBCではカバーしきれないリアルタイム制御用途を担いました[35]。

自社設計に踏み切った理由は、既存の他社製マイコンではコストと性能の両立が難しかったためです[36]。Picoはチップから完成基板までを一貫管理する垂直統合製品として位置付けられました[37]。2021年6月にはRP2040単体が1ドルで外販され、他社製ハードウェアへの採用も拡大しました[38]。2024年8月には、デュアルCortex-M33またはHazard3 RISC-Vコア(150MHz)と520KB SRAMを収めた第2世代MCU「RP2350」が発表されました[39]。公式発表ではシリコン製品を「第2のフランチャイズ」と位置付けており、2025年にはマイコンの年間販売数がSBCなどの基板製品を上回ったと説明されています[40]。

フラッグシップSBCにも自社シリコンが採用されています。Raspberry Pi 5に搭載された「RP1」は、主要な外部I/O機能を管理する専用コントローラーです[41]。従来世代は主プロセッサに大部分のI/Oが集約されたモノリシック設計でしたが、Pi 5では外部インターフェースをサウスブリッジとしてRP1(20mm²のダイ)に分離しました[42]。

この分離構造の狙いは、主SoC(16nmプロセスのBroadcom BCM2712)を置き換えることではなく、I/Oを切り離すことで主SoCをより微細なプロセスへ移行しやすくすることにあります[43]。現在もBroadcomのメインプロセッサやRenesasの電源管理IC、Infineonの無線チップを採用しており、自社製シリコンと外部半導体を組み合わせたハイブリッド開発が継続されています[44]。

誰に影響するか:競合SBCの特性分化と選定基準

SBC市場では、Raspberry Piと競合製品の間で機能の差別化が進んでいます。開発現場では、処理能力の絶対値だけでなく、インターフェース仕様やサポート期間を考慮した選定が行われています。

製品名プロセッサ / CPU構成メモリー構成NPU性能主な特徴・外部I/O掲載価格 / 方針
Orange Pi 5Rockchip RK3588S(8コア 最大2.4GHz)[45]最大32GB [45]6 TOPS [45]8K映像出力、M.2 PCIe、26ピン拡張 [45]8GB版 約$199(代理店)[46]
Radxa ROCK 5BRockchip RK3588(8K映像対応)[47]最大16GB [47]6 TOPS [47]2.5GbE、PCIe 3.0 x4 M.2 NVMe、40ピン [47]高性能・広帯域志向 [47]
Quartz64Rockchip RK3566(4コア 1.8GHz)[48]4GB / 8GB [48]0.8 TOPS [48]PCIe x4スロット、SATA(Model A)、eMMC [48]低価格・オープンソースOS重視 [48]
BeaglePlayCortex-A53 4コア(1.4GHz)+ M4 + PRU [49]2GB DDR4 [49]なし [49]mikroBUS、Grove、QWIIC、長距離無線MCU [49]センサー・産業制御重視 [49]
Banana Pi BPI-M7Rockchip RK3588(8コア 2.4GHz)[50]最大32GB [50]6 TOPS [50]2.5GbE×2、PCIe 3.0 x4 NVMe、8K対応 [50]サーバー・スマートNVR志向 [50]
Khadas VIM48K動画デコード対応 [51]8GB [51]3.2 TOPS [51]HDMI入力(4K 60fps)、M.2、OOWOW導入 [51]$329から(公式販売)[51]
Le Potato4コア 1.416GHz [52]1GB / 2GB [52]なし [52]40ピンGPIO、4K HDR、100Mb Ethernet [52]$50〜$70、20年ソフト支援 [52]
Tinker Board 2SRockchip RK3399(6コア 最大2GHz)[53]2GB / 4GB [53]なし [53]12〜19V DC入力、FOTA対応、IoT Cloud [53]産業組み込み・遠隔更新重視 [53]

競合各社は明確な軸を持って製品を展開しています。Orange Pi 5やROCK 5B、Banana Pi BPI-M7は、Rockchipプロセッサを軸に6 TOPSのNPUや8K動画処理、高速なNVMe接続を提供しています[45, 47, 50]。これらはエッジAIやマルチメディア、ネットワークサーバーなどの高負荷領域をターゲットにしています[45, 47, 50]。Khadas VIM4も4K 60fpsのHDMI入力や3.2 TOPS NPUを備え、マルチメディア分野に特化しています[51]。

一方、PINE64のQuartz64は、ピーク性能を追求するのではなく、低価格やコミュニティ主導の開発体制、オープンソースOSへの対応を重視する設計路線と位置付けられています[48]。また、Libre ComputerのLe PotatoはRaspberry Pi 2/3互換の外形寸法を持ち、20年間にわたる長期ソフトウェア保守を掲げています[52]。

産業IoT用途ではインターフェースの違いが選定基準になります。BeaglePlayはリアルタイム処理用のPRU(333MHz)やCortex-M4F(400MHz)、長距離無線MCU(CC1352P7)を備え、mikroBUSやGrove経由でセンサー群を直接制御します[49]。ASUS Tinker Board 2Sは12〜19Vの広範なDC入力に対応し、通信経由のファームウェア更新(FOTA:Firmware Over-The-Air)やIoTクラウド連携を標準化しています[53]。

後輩競合ボードには8K映像や広帯域なPCIeスロットを備えた高性能機が並んでいますね。

先輩純粋なハードウェア仕様だけを比較すると、Raspberry Pi以上の数値を打ち出すボードは多数存在するよ。

後輩それでも開発者がRaspberry Piを選ぶ理由は何でしょうか。

先輩公式OSの継続的な整備や長期供給の表明、そして豊富な拡張モジュールが揃っているからだね。仕様表の数値だけでは測れない運用リスクの差があるんだ。

開発現場の現実解:電源・発熱・メモリーコスト・長期保守の留意点

Raspberry Pi 5やAI拡張ボードを実運用に投入するにあたっては、ハードウェアスペック以外の物理的・経済的制約を考慮する必要があります。

第一の課題は電源供給です。Raspberry Pi 5では5V/5Aの電源や、推奨される27W USB-C電源の利用が求められます[54]。一般的な5V/3A電源を接続した場合、周辺機器への供給電流は合計600mAに制限されます[54]。NPUアクセラレーターや外付けSSDを安定稼働させるには、電源周りの設計確認が不可欠です[54]。

第二の課題は熱設計です。Raspberry Pi 5は高負荷状態が200〜300秒を超えて継続すると、パッシブ冷却(ファンなしの自然放熱)では放熱が不十分になり、熱によるサーマルスロットリング(性能低下保護)が発生する可能性があります[55]。実環境で持続的な計算能力を引き出すには、アクティブクーラーなどの冷却装備が事実上の必須要件となります[55]。

【AI推論環境における追加導入要素】
[Raspberry Pi 5本体]($45〜)
    ├── 推奨27W USB-C電源(5V/5A供給)
    ├── アクティブ冷却ファン(200〜300秒超の負荷対策)
    ├── AI HAT+ 2($130〜 / 2026年9月表示$200)
    └── 64bit OS(Trixie)+専用ドライバー/ライブラリ群

第三の制約は導入コストの変動です。Raspberry Pi 5自体の最低価格は、1GBモデルの追加によって45ドルから設定されています[56]。しかし、AI HAT+ 2の公式表示価格は発表時の130ドルから、2026年4月に50ドルの値上げが発表され、2026年9月時点の公式製品ページでは200ドルと表示されています[57]。本体と合わせるとハードウェアだけで245ドル以上となり、電源や冷却部品、ストレージを含めた総コストの計算が必要です[58]。

さらに、メモリー市場の動向も影響を与えています。AIインフラ向けの需要集中に伴うLPDDR4価格の上昇を受けて、Raspberry Pi 5の8GB版は2025年12月に80ドルから95ドルへ改定されました[59]。2026年2月にも2GB版が10ドル、4GB版が15ドル、8GB版が30ドルの追加値上げ対象となっています[59]。

第四の論点はソフトウェア保守とセキュリティです。Raspberry Pi 5は少なくとも2036年1月まで製造が継続される予定です[60]。ただし、最新のセキュリティ修正が提供されるのは最新メジャーバージョンのRaspberry Pi OSに限られます[60]。メジャーアップグレード時にはOSイメージの新規再インストールが公式に推奨されています[60]。

セキュリティ機構の導入にも運用上の注意が伴います。Raspberry Pi OSでは暗号化ルートファイルシステムがデフォルトで有効になっていません[61]。また、改ざん防止のためのSecure Bootを導入した場合、秘密鍵を紛失すると信頼済みブートローダーによる更新や復旧が不可能になります[61]。加えて、Linuxカーネルなどのソースコードは公開されているものの、公式リポジトリ上のファームウェアはプロプライエタリ(ソース非公開)です[62]。オープンソースを前提とした完全な透明性が担保されているわけではありません[62]。

後輩低価格な小型ボードという印象がありましたが、AI環境を組むと相応のシステム投資になりますね。

先輩そうだね。基板本体だけでなく、電源やアクティブファン、そしてメモリー価格の高騰も考慮する必要があるよ。

後輩製造が2036年まで続いても、OSの保守やセキュリティの運用設計は別問題ということですね。

先輩その通りだね。スペックシートの数字だけで判断せず、鍵管理や長期の再インストール手順まで見据えておくことが大切だよ。